わたし、多分こんなところで立ち止まってる女じゃない

 

カルティエ 時の結晶展、ギリギリですが見てきました。最高だった。

 

もともと母が若い頃からカルティエ好きだから財布から鞄から時計までカルティエ製品にわりと囲まれてきた。(囲まれてもないけど圧倒的にカルティエ“製品”がロエベなどと比べて家に多くあった)

 

でも、うちは資産家でもなんでもないので、ハイジュエリーはおばあちゃんが遺したブローチの1点しかなくて。

送られてくるパンフレットとか外商さんに見せていただいたときには蛇モチーフも虎モチーフもギラギラしてて怖くてたまらなかった。

だからカルティエはジュストアンクルとか時計とかそのくらいのベーシックなものしか目に触れないようにしてきた。

 

今回のエキシビジョンは70年代以降のものを中心に芸術としてのカルティエを推し出してるとのことだったけど、たしかに、ハイジュエリーを全面に出した展示というよりも「芸術としてのカルティエのジュエリー」ひいては「時の結晶」っていう言葉が会場を出る頃に身に染みるように展示が作られてた。

 

見ても欲しいとは思わなかった。

 

ハイジュエリーが欲しいとか身につけたいとか、似合う女になりたいとかそんなどこにでも転がってる誰もが口にしたことあるような思考はもうどっかへぶっ飛んだ。そんな一生かけて叶うかもわからない願いを持つこと自体をさらに、リアリティのある力にダウングレードさせつつアップグレードさせる、とてつもない魔力を孕んだ展示だった。

もちろん、母みたいに「絶対このカルティエの時計ほしいから仕事頑張るし貯金もする」みたいな目標は大事だと思うしそういう気持ちこそ一番蔑ろにしてはいけないもの。日常をこなすためのエネルギーになるし、ハイブランドのものってそうして買うまでのストーリーを持ってさらに輝くし。

わたしがカルティエの作品をつけてどこかに行くほどの社交界の人間ではないってことも前提としてあるけれど、それよりも圧倒的に、ジュエリーの持つ力みたいなのに動かされた。

 

この一個一個が芸術として成立してるハイジュエリーたちを前にして、言葉にならないパワーを受け取ったというか。

痛く聞こえるかもしれないけど、あれだけのダイヤやトパーズ、ルビーからサファイアからエメラルドまで、輝くものを次々にみて、フォルムがどうとか値段がどうとかではなく、本当に「時の結晶」ってこのことだと思ったんです。

 

1900年代初頭に作られた作品は、たしかに最近のものよりも輝きは薄い作品ももちろんあった。特にゴールドとかプラチナ。だけど、その少しくたびれた感じすら味があって美しくて、決して「古い」だけではなかった。ああもう本当に、とにかく全人類に見てほしい。

どんなに昔のものでもダイヤは360度に様々な色で輝いてて、その輝きは変わらない。本当に、どうしてこんなにみんなダイヤという宝石にとらわれ魅了されるのか、本当に分かった。

何度も言うけど、欲しいとか欲しくないとか、いつかこれが買えて銀座に住んでる女になってやるとか、最早そういう次元じゃないの。あの輝きを見て、見ている姿すら、わたしはあの空間に並んでいていい者かわからなかったし、だからこそ、異様にパワーを受け取った。

 

特に、今回のカルティエ展で最後の最後に見た虎のモチーフの大きな首飾りに凄まじい衝撃を受けて、宝石の輝きとかハイジュエリーへの憧れとかではなく、「この空間にいる自分」というものが一気に流れてきた。

 

蛇も虎も、今までただのアニマルモチーフだと思ってた。それは多分、こうして雰囲気を持って、美しく、芸術作品としてさらに輝くように飾られたものを見なかったから。あと、今まで人生を適当になあなあに生きてきたから。ハイソな人が身に付けるお高いアクセサリーとしての側面しか、いわば消費物としてカルティエを認識していたわたしの未熟さから生まれた「蛇や虎はちょっとな...」というものだったんだとはっきり突きつけられた。ほんとしょうもない。もちろんホコリを持って選んだ道だってたくさんある。わたしだってそんなにカスカスな人生ばっかり送ってきたってわけじゃないさすがにそこは少し自負してる。いままでの自分はたしかに自分が選んで生きてきたけど、目先のことにばっかりとらわれてる自分が恥ずかしくなった。

 

芸術作品として、ハイジュエリーとしての繊細さ、蛇や虎の動物としての恐ろしさ、力強さが合わさって、その作品だけでとてつもないパワーを生み出してた。

カルティエ展を見た後、ずっと「わたし、マジでこんなところでつまずいて立ち止まってクヨクヨ嘆いてる女じゃないし、そういう使命のもとに生まれてない。多分こんなところで立ち止まっていられるタチの女じゃない。強くもないけど弱くもない。でもわたしは絶対に自分に対して強くいたいし、自分を一番大事にしたいし幸せにしたい。そのためにしたたかに生きてやる」っていう気持ちが止まらない。

 

家にはたくさんのアートに関する本があった。リビングに並んだ画集とか、レプリカとか、はっきり覚えてる。もちろんその家は14歳で離れたので、手に取ったことはない。

小さい頃から特に父親に、アートには触れろと言われてきた。これまで生まれて277ヶ月、なんとなく興味あるものしか見てこなかったけど、アートや力強いものには絶対触れた方がいい。東京に越してきてから、父が何度もわたしに博物館や美術館での展示に誘ってくれたのか理由がわかった。というか、そういうのに感度の高い父がいるからこそのわたしなのかもしれないけど。

わたしはそれらから感じるものが多いし、気持ちが変わる。錯覚だっていいんだ。それを錯覚できてる時点で、少なからずともなにかを吸収したってことじゃんそれだけでわたしの勝ち。

 

わたしは強い。うそ、弱くもないし強くもないどっちでもない人間かもしれないけど、失いたくないものは絶対に失わない。それだけでいいじゃん。

若さにかまけることも、老いに恐怖を持つことも、時間に追われることもない。

生きることに余裕を持つ。

「時の結晶」が生まれるのをゆっくり待てばいい。そうして未熟さを熟成させて深みと味を持っていくし、固くて決して壊れないものになる。

そういうふうに時間を重ねて、柔らかく美しく、力強く、聡明に笑っていたいですね。