メモ

 

簡潔に言うと、小学1年の時から震災までほぼ毎週のように通っていた富岡周辺に行ったら、心が死ぬどころか自分の役目の半端さと何もできない無力さと、でももっと何かしないといけないから大学院生活頑張ろうって思った話。 

 

久しぶりに故郷に帰ったり、親の転勤でいろんなところに住んだ経験のある人がその場所に帰ったりした時に、「懐かしい、でも変わったなあ」と思うことはよくあることだと思う。今やどこに住んでもどこに行っても再開発や建設ラッシュで街並みは2、3年も経たずに変わることは当たり前のことだし、そうした光景の変化にいちいち敏感になっている人の方が少ないのかもしれない。

 

でも、富岡駅に降りた時のあの気持ちは、多分その何にも当てはまらない、なんとも複雑で形容できない気持ちだった。

 

突如私の中で姿を失った富岡駅は、もっとボロボロで、道も舗装なんてされてなくて、隣にショップなんてなかったし、電車だってあんな立派な車両じゃなくて、時間によっては2両で、ボタンを押さないとドアの開かない、普通の横一列の、座るとミシミシ言うような常磐線だった。首都圏の電車だと、武蔵野線のボロい車両よりもっとボロい感じ。

 

何もかもがちぐはぐで、気持ちがどうにもどこにも収まりがつかない。

喜怒哀楽の何でもない、宙ぶらりんな感情。

 強いて言うなら、変わってしまったことをとにかく受け入れるように強いられているような感じ。どこからどこまでも強制される、受け入れろと言わんばかりの圧力を、富岡駅周辺から市街地までの道のりで、ただひたすらに感じさせられた。

 

塾に行く前によく寄っていた、店主のおじいちゃんが優しくてニッチなマンガ本ばっかり置いていた本屋さんだってなくなっていたし、駅自体の場所が少しずれたのか、まっすぐ歩いて出る道も違っていた。

ひたすら歩いて15分、ツルハと歩道橋のところに出るはずだった道ではなく、エネルギー館の方のトムトムの脇道に着いた。

 

道中、新聞社や新築の家やホテルもあって。

いっさい手の加えられていないボロボロになった家と、綺麗な家や事務所がポツンポツンと並んでいて、なのに道路は舗装されてとても綺麗で歩きやすくて、空気だって美味しい。それはそれは不気味だった。

 

深呼吸したくなったくらい綺麗だった。だけど、原発がすぐそばにあると言うだけで、なぜか深呼吸はできなかった。空間線量は十分に低いのに。

伊豆の修善寺駅に着いた時とその周りを散歩している時と気持ち的には違わない。「思ったよりなんもねぇ、、、」程度の気持ちだった。だけど、歩き進めて見慣れた市街地に着くまでに、どんどん気持ちは宙に浮いていく。

あれ、ここじゃない。ちょっと違うかも。

うわぁ、アトム寿司って今見るとマジで笑えねえ。

富岡は負けん!そうだよね、そうだよなぁ。

 

富岡は私にとっては双葉郡の中ではかなり身近なまちだった。

小さい頃からダンススクールで富岡に通っていたし、ダンスを辞めた後は富岡の塾に通った。

どっちも旧トムトムから歩いて3〜5分圏内の場所だったので、廃炉博物館になったエネルギー館なんてしょっちゅう遊びにきてたし、トムトムだって宿題したりケンタで買い物したり、忘れ物をしたら文房具屋さんで買い物したりとにかくお世話になった。

さくらモールになった今、おそらく内装自体はそんなに変わってないように思えたけど、フードコートはレイアウトも出店してる飲食店も変わっていた。

お気に入りの文房具屋さんも、お店の左奥にあった子どもの遊び場もはっきり覚えている。時間がなかったからしっかりさくらモールの中を見ることはできなかったからいまその場所がどうなってるのかはわからなかった。でも、ベニマルでは若いお姉さんがレジで仕事をしていたし、作業員の人たちの憩いの場になっていたし、あの場はしっかり経済は回っているように、復興の道を歩んでいるように見えた。

 

でも、帰還とか復興とか全町避難解除そんなことでは片付けられない問題ももちろんある。

それをまざまざと見せつけられた。

こぎれいになった廃炉資料館は、昔エネルギー館だったとは外見だけでは確信を持って思い出せなくて、スタッフの方に聞いてようやく思い出した。でも、私の思い出の「楽しかった」エネルギー館は「重々しい」廃炉資料館に姿を変えていて、もしかしたらエネルギー館もトトロ合衆国(?)を作ったタイミングみたいに変化をする時があったのかもしれないけど、そうして気付かない間にしれっと姿を変えて、しかも子どもの頃の楽しかった記憶をじわじわとぶっ壊されている感覚が本当にじわじわと心を侵食してきた。

泣きはしないし、変わったことを肯定もできないし、でも経済が回り始めて街が復活するのも素晴らしいことだと、いざ富岡を目の当たりにするとそう思える。

でも、車で数分走ればそこは帰還困難区域もあって、1Fもある。

その環境でまた暮らすことを前提として帰還宣言、避難解除をする行政には、正直疑問はまだ残る。

帰りたい人は帰ればいいし、帰りたくない人は帰らなければいい。それだけでは片付けられない問題だって山ほどあるのに、なぜ帰還を急ぐのか。

2023年春、現時点での帰還困難区域の一部も避難指示解除が予定されている。

たった4mの原子炉が事故っただけで、何万人もの人の人生がひっくり返った。安全とか安全じゃないとか今頃そんなことは言っても仕方がない。間違いなく事故があって露頭に迷う人がたくさんいた。地震そのものの被害によって苦しい生活を続けた人だっていた。その上で、一時避難だと思っていたのに帰れませんと言われるそのことの絶望は、もう誰にもわからないものだし、これ以上誰にもわかってほしくない。これ以上わかってしまう人を出さないのが、1番の対策なのではないかと思う。