わたしのSNS(インスタ)持論
SNSはいつから息苦しくなったのかと思う。
2010-11年はモバゲー、GREE、前略ブログ。
2011-2012あたりは記憶の限りではデコログやリアル、アメーバピグなどが台頭に立っていた。そしてもれなくそうしたサービスを網羅していたと思う。
やらないと友達との会話についていけないというのもあったけど、単純に良くも悪くも学校生活の延長感があった。
2012-2014年はGREEの衰退とmixi一強、そしてmixi衰退からのTwitter移行という流れが出来上がっていた。アンテナの高い子は2013年ごろからTwitterとInstagramを併用し、そしてInstagramにストーリーという機能ができてからはTwitterすらも衰退した(というよりは併用することによりInstagram>Twitterの構図になった)ように思う。
いまこうして振り返って考えると、Instagram、さらにはストーリーというサービス(機能)が、日本社会では若者のSNSの使い方を変えた諸悪の根元であり、革命児的存在だ。
ストーリーの機能はデコログ、アメーバリアル、Twitter初期の「〜なう」機能を持ち、かつ24時間という時間制限によって「ちょっと身内的なポスト」という意味合いも持ち始めた。
インスタ映えという(クソみたいな)概念が生まれてからは「ポストするまでの映えではないけれど、とりあえず自分的にいい感じの写真が撮れた/シェアしたい写真が撮れたのでストーリー」という意味も持ち始めたと思う。
ただ、ここまで各種SNSを軽く分析するにあたっては、わたしが小3の時から掲示板に入り浸り、携帯を持ってからはGREEモバゲーmixi Twitter Facebook Instagramをフル活用してきたといういわば「SNSっ子」というバックグラウンドもあり、また、それらを通ってきたということも含めて、経験上、わたしはInstagramに対して「いままでのSNSで最もと言っていいほどのものすごい呼吸のし辛さ」を感じている。
映えないとダメ。バーチャルに交流が生まれる場所。見ないとダメ。いいねしないとダメ。
半ば強迫観念的な、「使い方」のベースが出来上がってしまっているSNSと変貌し、そのSNSの自由にコミュニケーションができたという利点はどこへ消えたのか。
あーだるいです。もうやってらんねんすよ。
でも離れることもできないんですよ、習慣になってるし、人と繋がってるベースですからね。
いままで心地よかったInstagramって、2015-16年のあたりの、「インスタ映え」という言葉はないけれど「少し粋な写真を厳選して載せる場所」として機能していたInstagram。
そして同時期の「交流の場所」のTwitter。
これらの機能がInstagram上に集約、厳選されて、今の Instagramになったような体感なのだけれども(ストーリーがTwitterの役目をのっとった形)、今の形のまま2015-16年の「誰も得しないし損しない自由だったInstagram」をわたしは使いたいわけですよ。
それは今はどうですか?映えだの匂わせだの、友達多いアピールですか〜とかお金あるアピールですか〜とかどうでもいい「自己顕示欲と自己承認のはざまで生まれて歪んだ嫉妬」みたいなのを生まないようにしないといけないみたいなステージになった。みんなポストした瞬間アーカイブして、3日後くらいに「show on profile」する理由はなに?いままでの投稿全部アーカイブする理由は何?個人差はあるだろうし世代によって使い方も違ってくるし変わってくるのはわかっているけれど、もしかしたらわたしがSNSに浸りつつも変わっていくSNSの姿を見ていられなくなって受け入れられないだけかもしれないけど、そうじゃねえ!そうじゃねえんだ!
わたしはわたしの知ってるSNSの使い方してえんだ!
つまりですね、「いや誰の目を気にすることなく好きなように投稿できてたInstagram一番楽しかったので、わたしそうするわ」です。
なので意味のわからない「海老が鎮座dopeです!」とか「完全防寒ババアが僕の名さ」とか映えでも萎えでもない絶妙なラインのInstagramの使い方をします。繰り返すけど、映えだの萎えだのそんな考え方のなかった時代のInstagramに戻りたいわけですわ。
だから映えも萎えもクソもないわけ。
画面の向こうの何考えてるかもわからない人に気をつかうSNSは本当に機能しているの?
自分がよけりゃあいいじゃん!
Social networking servicesだけど、self networking to social media でよくな〜い?英語できないから文法的に合ってるかわかんないけど。
自由に生きることが難しい世の中だからこそ息抜きくらい自由にやろ。
以上!