自意識とか自己肯定とか

 

「映像文化の社会学」という本の第5章「個人をつくる映像文化」という論文をゼミで読んだのだけれども、写真が生まれたとか市民に広がったとか歴史のパートは一回置いておいて、最後のセルフィーのところで、めちゃくちゃ自意識形成についてすごい深く考えることができたので、メモを残しておこうと思う。

 

論文の中で筆者は、要するにセルフィーとSNSは写真の歴史を変えたっていうのと、セルフィーはセルフポートレイトであって、撮影者(本人)が作り上げる世界で成り立っていて、そこに自意識が存在する。(セルフィーではなく自分以外の撮影者がいたり、外カメラで撮ったもの、鏡越しは他者性が存在するということらしい)

そしてセルフィーは自意識の塊だから、自意識を他者へと広げていく仕組みが必要で、そこで生まれる他者とのコミュニケーションというものがいいねやお気に入りという機能が担っているという話。

 

セルフィーってたしかに自意識が投影されるものだから、加工する人もいれば理想の自分がうつるまで角度を細かく調整する人もいるし、そもそもセルフィーがなんの意味も持っていない人もいる。

 

だけど、セルフィーって結局はセルフなのであって、多分本質は自分とのコミュニケーションなんだと思うんだよなあ。この論文では写真をどこに見せるか、写真を用いたコミュニケーションみたいなところが全体として書かれているからセルフィーと他者というものを共通させたかったのかもしれない。でも、持論だけどセルフィーって絶対に自分との対話なんだよね。

わたしはセルフィーよく撮るけど、他者に見せたくて撮るわけではない。自分の心身のコンディションの確認と記録、そして自分を用いた遊びみたいなところがある。

 

例えば旅行に行った時トランクを上手に運べなくて足にものすごい大きなアザができたときも、ホテルでそのアザを撮ってどこにも出さずに1人ひっそり特に楽しむこともせず写真を撮った。

定期的に夜セルフィーしたりするけど、すっぴんのままの写真なんてどこにも載せないから、大概は一人でキメ顔をしたり左右のむくみ方を確認したりする程度だ。

でもしっかり写真に残すことが、自分とのコミュニケーションなんだと思う。

べつにセルフィーに関しては他者が介入する必要はない。

むしろセルフィーの「原型」つまり「加工前」っていうのが本物のセルフィーであって、他者とのコミュニケーションが生まれる「セルフポートレイトとしてのセルフィー」っていうのは、「他者へ見せる前提で、承認されたい自分を作り上げた上での自画像」なのである。わたしが思うに、セルフィーそのものとセルフポートレイトとしてのセルフィーは区別して考えなければいけないんじゃないかってこと。

いいねもお気に入りも他者とのコミュニケーションではあるかもしれないし、結局は自分を承認させたい欲と自意識の活性化というのは納得がいくけど、それはセルフィーという行為と行為の最初の写真では成立しないのではないだろうか。特に日本社会でのセルフィーは。

 

でもこの論文を読んで、いろいろかんがえて分かったことは、結局人間は承認されて、自意識と自己肯定とメンタルの爆上げをできる環境で生きることが大切だってこと。その要素が揃わないと結局何を頑張っても肩書きや金を積んでも満たされないかもしれないし、一生大人になんてなれないのかも。

だからある意味「好きなことして生きていく」って自意識を形にできるし、好きなことをして生きていけるという自分の技術や発想への自己肯定だし、メンタルはしんどいかもしれないけど結局それで食っていけたら爆アゲバンザイじゃない?うらやま道中膝栗毛。理想の生き方だよね。自己肯定、自意識に気づいて認めて、そしてメンタル強靭。なんなのそのフルメタルアーマーな感じ。

 

「ま、どうにでもなるっしょ!」とか「わたしはわたし、あいつはあいつ。比べてもしゃーなし!」みたいな自己肯定や自意識の芯的なものって、どうやったら生まれるんでしょうね。

だから道重さゆみは本当にすごいなって思ったし、来世は絶対に道重さゆみに生まれたい。