自意識とか自己肯定とか

 

「映像文化の社会学」という本の第5章「個人をつくる映像文化」という論文をゼミで読んだのだけれども、写真が生まれたとか市民に広がったとか歴史のパートは一回置いておいて、最後のセルフィーのところで、めちゃくちゃ自意識形成についてすごい深く考えることができたので、メモを残しておこうと思う。

 

論文の中で筆者は、要するにセルフィーとSNSは写真の歴史を変えたっていうのと、セルフィーはセルフポートレイトであって、撮影者(本人)が作り上げる世界で成り立っていて、そこに自意識が存在する。(セルフィーではなく自分以外の撮影者がいたり、外カメラで撮ったもの、鏡越しは他者性が存在するということらしい)

そしてセルフィーは自意識の塊だから、自意識を他者へと広げていく仕組みが必要で、そこで生まれる他者とのコミュニケーションというものがいいねやお気に入りという機能が担っているという話。

 

セルフィーってたしかに自意識が投影されるものだから、加工する人もいれば理想の自分がうつるまで角度を細かく調整する人もいるし、そもそもセルフィーがなんの意味も持っていない人もいる。

 

だけど、セルフィーって結局はセルフなのであって、多分本質は自分とのコミュニケーションなんだと思うんだよなあ。この論文では写真をどこに見せるか、写真を用いたコミュニケーションみたいなところが全体として書かれているからセルフィーと他者というものを共通させたかったのかもしれない。でも、持論だけどセルフィーって絶対に自分との対話なんだよね。

わたしはセルフィーよく撮るけど、他者に見せたくて撮るわけではない。自分の心身のコンディションの確認と記録、そして自分を用いた遊びみたいなところがある。

 

例えば旅行に行った時トランクを上手に運べなくて足にものすごい大きなアザができたときも、ホテルでそのアザを撮ってどこにも出さずに1人ひっそり特に楽しむこともせず写真を撮った。

定期的に夜セルフィーしたりするけど、すっぴんのままの写真なんてどこにも載せないから、大概は一人でキメ顔をしたり左右のむくみ方を確認したりする程度だ。

でもしっかり写真に残すことが、自分とのコミュニケーションなんだと思う。

べつにセルフィーに関しては他者が介入する必要はない。

むしろセルフィーの「原型」つまり「加工前」っていうのが本物のセルフィーであって、他者とのコミュニケーションが生まれる「セルフポートレイトとしてのセルフィー」っていうのは、「他者へ見せる前提で、承認されたい自分を作り上げた上での自画像」なのである。わたしが思うに、セルフィーそのものとセルフポートレイトとしてのセルフィーは区別して考えなければいけないんじゃないかってこと。

いいねもお気に入りも他者とのコミュニケーションではあるかもしれないし、結局は自分を承認させたい欲と自意識の活性化というのは納得がいくけど、それはセルフィーという行為と行為の最初の写真では成立しないのではないだろうか。特に日本社会でのセルフィーは。

 

でもこの論文を読んで、いろいろかんがえて分かったことは、結局人間は承認されて、自意識と自己肯定とメンタルの爆上げをできる環境で生きることが大切だってこと。その要素が揃わないと結局何を頑張っても肩書きや金を積んでも満たされないかもしれないし、一生大人になんてなれないのかも。

だからある意味「好きなことして生きていく」って自意識を形にできるし、好きなことをして生きていけるという自分の技術や発想への自己肯定だし、メンタルはしんどいかもしれないけど結局それで食っていけたら爆アゲバンザイじゃない?うらやま道中膝栗毛。理想の生き方だよね。自己肯定、自意識に気づいて認めて、そしてメンタル強靭。なんなのそのフルメタルアーマーな感じ。

 

「ま、どうにでもなるっしょ!」とか「わたしはわたし、あいつはあいつ。比べてもしゃーなし!」みたいな自己肯定や自意識の芯的なものって、どうやったら生まれるんでしょうね。

だから道重さゆみは本当にすごいなって思ったし、来世は絶対に道重さゆみに生まれたい。

 

明日にはウサギになってねえかな

 

毎日ウサギか恐竜の赤ちゃん(版権)を抱いて寝ているベイビーなのですが、精神面だけは立派に拗らせた大人になってしまったので、日々口からついて出てくる言葉は「しにてぇ〜」。本当にしねたら楽なんですかねぇ。どうなんでしょう。

 

未来があるように見えて実はなくて、好きな人にはまっすぐに誇れるような好きを貰えないし、推しには彼氏ができてしまったし、卒論は辛い。

 

基本的にマイナス思考だし、何を言われても「どうせ裏では」的な考えになってるし、とにかく自分が不幸でたまらない気がするんですけど、多分そもそも幸せが何かもわかってないからしっくりきてないだけなんですよね。

 

けど顔タイプは石原さとみ深田恭子泉里香と一緒だぜ。下重心の顔なのに他のパーツのおかげでフェミニンだぜ。最高だぜ。

だからわたしは石原さとみの顔にも深田恭子の顔にも泉里香の顔にもなれないけど、強い顔を持ってるってことでええやんな。顔面は金だ。金は顔面だ。ルッキズムの考えは一生抜けないな。

けど、ほんと数年前までは「あなたの方が劣っているしわたしの方が上」となにかと相手を下げるようなことを思っていたのですが、最近は「わたしが至上なのであって、他とは競う気もないし、その中でわたしという選択をしない皆さん、ほんと見る目ないわね」とドーンと構える姿勢になったので、(そのあとすぐ、これ虚勢やんけ、と思ってしまうのは治らない)

 

早く人生楽に生きられるようにならないかなぁ〜〜!!

昔ポストに書いたことへのアンサー

 

なにが言いたいのかわからなくなったけど、もし私が若くして死んだら、棺桶には沢山のワイン、焼香の代わりに、死に顔にシャンパンとシャルドネネッビオーロをぶっかけてほしい。それと辛ラーメンハリボーままどおると牛乳も忘れないで入れてほしい。お墓にはときどき、お花の水は南アルプスの天然水で、お供えはバナナの形した砂糖菓子と、五行のラーメンがほしい。それさえあればわたしは生きていけるのだ。

 

今でもこの文章はほんとうに私の今までの人生を綺麗にかつ端的に表してて自分で感心する。

完全に色々変わった3年間をここまで丁寧に、なのにこれだけ簡潔に書けた当時のわたしすごいよ。どんだけ世の中に文句あったの。

 

ちなみにこのポストをしたInstagramのポストはアーカイブして寝かせたんですが、あの文章本当に他者への不満、自分への不満、そして自分が生まれた環境への甘えと利益追求、いろいろしっかり密度濃く詰まっててとにかく痛々しい。悲痛の意味の方の痛い。

それを読んだ後にまたこのブログの8月末〜9月頭あたりのポストを読むと、あの短期間でいかに人生に向き合って、進路について考えて、人生に希望を持ったかめちゃくちゃよくわかる。

今でも人生バラ色なわけではないけれど、それでも「まあ人並みに生きるか〜」と思うようになったのは、明らかに出会った数冊の本と数人のライターさんのおかげだし、帰結する先はやっぱり私は文字が好きってこと。

 

 

ダサい大人になりたくないって話

 

前のエントリでもさらーっとダサい大人については匂わせて書いたけど、久しぶりにダサい大人に出会いました。びっくりしました。ダサい、いろんな現実から目を背けすぎ、学がなさすぎ。

 

直接的な関わりはそんなにないし、むしろ関わったら仲良くなれないタイプ。

典型的なこじらせ女のわたしですら「こいつ...こじらせてんな...」と思ってしまったような方なので、一切関わりたいという気持ちもないのですが、どうしても切り離せない方なのでとりあえず見ている・関わっているという状態の方なんですけど。

 

わたし、多分(自分のことは棚にあげるけど)日本語が綺麗に使えない方嫌いなんですね。

日本語はせっかく漢字もひらがなもカタカタも用意されているのに、きちんと状況に合わせて適応できない人。(そうしないことが彼・彼女の世界観であって完成されているのならばそれはまた別の話)絶対に意図的に日本語を誤用している人。その誤用がスベっている人。見てて本当に背中が震えます。「何やこいつ...」って思います。

自分の横文字多様もルー語もそろそろやめたいです。本当に日本語が出てこなくて英語が先に出てきて、かつその日本語訳がわからないっていう状況が多々起こる。これは自分ではどうにもコントロールできないってわかってはいるけど、他者から見ると完全に「英語できるぶってるやつ」にしかならないのでやめたいです。個人的なことを申すとこれはわたしの脳のご都合の問題が出てくるので仕方ないといえば仕方ないんですが、それを果たして面接でもやるのかといわれたらいまの日本社会でそれをするのはハードルが高いのでやれないんですよね。なんだかんだ日本社会に適応したいわたし。そういうズレのようなものに自分でも時々苦しい気持ちになるのですが、言語を使える以上はどの言語も美しく適切に使いたいなと思います。

それができない人、ましてや年上なのにそれができてない人がイコール学や教養がない、ニアリーイコールわたしが“オトナ”として認める(認めたい)人として適材ではないという判定になるので、本当に関わりたくなくなるんですね。

 

ふつうの社会のひととはおなじことをしていないおれわたし、さいこう!

 

いや、だせえです。いい歳して、何してんの?

それ、ただ他人と同じことをしていない、他人と同じことができない自分に溺れて正当化してるだけでは?他人と違うことをしているプライドがあるならその人はそんなことを主張しないし、他者からの余計な影響も受けず、他者からの枠組みに囚われず、勝手に生きてるから。てめえの思う”ふつう“とてめえの”いじょう“を比較してる時点でダサいんで静かにできませんか?

 

って言いたい気持ちを抑えて、抑えてたんですけどあまりにもこっちが辛くなるほど痛々しかったんでブログエントリにしてしまった。

 

わたしには普通のことじゃないことをすることができません。大学院に進学することくらいですかね。クリエイティブでもないし、文章だっていつも支離滅裂、英語だってスキルとしては自慢できるものではないし、とにかく何もない。

なにもないからこそ、でもどこかちょっと一般には適応できないからこそ普通に擬態して生きるし、その中で感じた違和感はこうしてシコシコ表明していくし、とにかくいまわたしの思うダサい大人にはなりたくないですね。That’s the spirit. Oh what the wonderful life. 

人としての深みがなさそうというパワーワード

 

昨日、久しぶりに友達と会って、友達の話(ムカつくとか散々言ってるけどまじでおめでとうなことなので心の中ではめっちゃ祝福してるし歓喜してる。現実ではやっぱり嫉妬心などが出てしまい迫真の表情をしてしまう)を聞きながらいかに自分がゴミのようなことをしてるのかというのが「なんかこうね?うん、、、」って言うのをありありと感じてしまい、劣等感ともまた違うんだけど、あら〜まあもう生き方見つめ直したいわぁんとふざけつつも真剣に考え込んでしまいまして。

飲んでる時はめちゃくちゃ楽しいし個人的には定期的に会いたい人だし学ぶことも多いので、話しててかなり身になる人なんだけど。ふざけたトーンの話もできるしクッソ真面目な話もできる貴重な人なの。多分根底にもつ学びに対するベクトルがほぼ同じ方向を向いているからだと思うんだけど。

 

毎度2個くらいは名言を生む飲みになってしまうんだけど、今回生まれたのは

かわいいは正義・イケメンは真理」、

そして「人として深みがなさそう」というパワーワード

 

クゥ〜〜〜!!!!と思いました。

これだ〜〜〜!!!マジこれ!!!間違いナイトプール!!!

 

今までなんとなくしっくりきてなかったことがストンと腑に落ちた。

いろんな人に対して、尊敬している、仕事人としても好き、生き方も憧れる。こんな大人になりたい、、、でもこんな大人には絶対になりたくない。って思うことが多々あるんですよね。

仕事とかその他いろいろなことで見える表面的ないわば仕事の顔と、その人そのものの根底とも言えるヒューマニティとでその人の2つの顔を見るんですよね。それはもちろんソトヅラという言葉がある通り、各個人それぞれ持つ顔だと思うし、わたしのように人に見せられない内面を持つ人もいるし、あって当たり前の二面性です。

 

でも、失礼ながら「わたし、この人から学ぶことってなんかあるかな?逆に、私たち話してて何か化学反応起こしてる?相手にとっても時間の無駄じゃない?」とときどき思ってしまうのは、十中八九「人としての深みが感じられない」し、「わたしの深みも発揮できていないしわかってもらえていない」からなんだと気づけました。おそらく、わたしがそう感じているということは、その瞬間はないとしても相手もいずれ違和感を感じながら付き合うことにはなって徐々にフェードアウトにはなる気がするけど、それでも異様に気が合う人とかっているんだよね。

その人に対して冷めているわけでもなく、信用していないわけでもない。でも、わたしが何かを言ったところで、その人の片面すらも揺るがすこともできない。絶対的な影響力を持たない存在であるからこそ、この人と一緒にいて何か得るものってあるのかなと考えてしまうんですね。いや、この人といて何か得るものってあるのかな、は語弊です。間違いなく得るものはあるはず。でも、その先にお互いに「変化」するものは薄い。その時は納得するし、理解もできる、感心もするしこの人すごいじゃん!って思う。自分の畑の人じゃなくても、自分の畑じゃないからこそ邪心なしにすごいと純粋に思えるし、尊敬もできる。でもそうじゃない。その先にお互いに何かあるのか、いやないのかと思うと、多分ない。

 

悲しいんですけど、多分それが大体の人間関係においてはそうなんだと思う。

例えば、畑が違くても一緒でもわたしが苦しい時にそこを超えるにはどういう風にするといいのか、真剣にどうすればいいか考えてくれて、越えられるような踏み台になってくれるような人って少ない。逆に、わたしも他者に対してそれができているかと聞かれると、数少ないひとよりもさらに少ない人にしかそういうものは提供できてないと思う。

 

そういうことを考えないで、明るく楽しい世間話だけをして、軽く付き合える人ももちろん重要だし、そういうともだちをないがしろにしたいわけではない。一歩そのエリアを超えた関係の人・なんだかよく覚えていないけどお互いに影響を与えあう関係になってしまった人っていうのが多少はいて、そういう人たちって関わりが多くなればなるほど期待するものが多くなる。本当にがっかりする前に、軽いがっかりのうちに関係に見切りをつけたくなる。深く関わった後に深くがっかりすると、その穴は意外と埋まらない。がっかりしたのにもかかわらず。それもまた今まで経験してきた人間関係。

 

その人の経験してきたもの、考え方の深さ、モノの捉え方などをある程度見せていただいて、合うと思ってきたのに急にその深さが思ったより深くなかった。その人にダイブできない感じ。飛び込んだあとに「あれ、足ついちゃった」「勢いよく飛び込んだら頭打っちゃったじゃん!」的な。

人として深みがないって、そういうことだと思う。あれ、この人特定の事柄にはものすごく精通してるし尊敬できるけど、それをとったら思ったより薄っぺらい人じゃん。

 

そういう人間にはなりたくないし、そういう人間からすっと距離を置ける人間になりたいです。

そういう人とって意外と距離を取りづらい。もしかしたらまだ隠してるのでは?という期待も持ってしまうし、心を開いてくれてないだけかな?とも勘ぐってしまう。とにかく、一回飛び込みたい!と思った人に対して期待が大きくなってしまう。

 

執着なのか尊敬なのか敬愛なのかわからなくなる時はよくある。だからこそ、自分に必要な人間なのかをしっかり見極めたいですね。

 

これ、22歳が書いてんだぜ。どんだけ人生辛いものとして考えてんだよってな。そりゃあ就活サイトで精神年齢40歳で出てくるわ。ネガティブなアラフォーって。

実年齢が40になったときは、ステキなセレブ婆になっていたいですね。自分はまだ若い!と思うことは素晴らしいことだし結局そういうマインドが挑戦心とかに繋がると思うけど、実年齢から逃げてるヤツにだけはなりたくない。ババアになってまで成熟していない日本語使いたくないし、アホくっさい若作りしたSNSなんてやってたくない。絵文字使わなくてもその時のフィーリングを表現できる人間でいたいし、言葉の力を上げたい。やっぱりわたしはことばで表現することが好きでいたい。それを40になっても続けていたいし、そのときにこういう若くて痛いエントリを見て、ストラグルしてる自分をちゃんと認めてあげたい。そうすることでこの葛藤とかも全部クリアになればいいよね。20年後。

 

というかSNSは今すぐにでもやめたい(辞められないけど)

 

 

 

 

 

別によくいるブロガーになりたいわけではないが

ブログタイトル通り、これは間違いなく雑記です。

わたしは別にブロガーになってマネタイズしたいとかそういう気持ちは一切なくて、ただ好きなことをその時の言葉で好きなように残すためにものを書きたいだけなんです。

8月末あたりのエントリでも書いたように、文字を書くこと、スクリーンに向かって感情を吐きつけることがわたしのストレス発散であり記憶の再構築であり、小さい頃からずっとなんとなくの習慣になっていること。(元は原稿用紙とかノートだったけど)例えばそれが友達に会って美味しいものを食べることでできるコミュ力おばけみたいな人もいれば、わたしみたいにとにかく他者から引き離されて一人でスクリーンに向き合いたい人もいるわけで、わたしにとってはお金もかからない、時間を使うだけのかなり都合のいいストレス発散の場所です。

だから構成を練ったりもしないし、ザーッと見返して誤字脱字や明らかにおかしい文章以外はなおしたりしない。だって他人に伝えるものじゃないから。

はてブを選んだのも、もちろんサービスとして使いやすいっていうのと好きな文字書きさんがみんなはてブを使ってるからというのもあるけど、一番はアンパブリッシュがしやすいから。恥ずかしくなって「消す」のではなくて「非公開」に簡単にできるのがやっぱりはてブが一番使いやすかった。それだけです。あとアプリがシンプルで一番とっかかりやすい。

 

わたしみたいなやつって人間関係がゴリ下手。

だから人と会うのも嫌な時は嫌だし、人に会いたいって言えないし、会いたいと思ってても会いたいと言われても「そう言えばもうずっと会ってないね〜」としか言えない。要するに天邪鬼でプライドが高くて素直じゃないゴミ人間なんだけど、そういう人間なのに他者との接触が絶たれると超不安になるし、社会から必要とされてない気がする。そんな大げさな話じゃないじゃんって思うかもしれないけど、一人の時間が欲しいのに孤独なのは嫌っていうまさにのソレなんですよ。だから基本的に構ってちゃんなのに、自分から構って構ってができないから生きるの下手くそ。あと、普通に連絡がなくなるとその人への興味も薄くなる。申し訳ないけど、わたしのことそれなりに構ってくれると意思表示した以上、それはあなたの都合だけではどうにもいかない。「今何してんだろ」「あーあ構われないのさみしいなあ!」から「あ、クッソどうでもよくなってきちまったな、ハナホジ」ってなるまで割と早いから。人と浅い関わりができないの。それは他人であり関わりを持った人全員に当てはまる。性別や関係性を問わない。マジで。 病気だろって思うけど、マジで自分でもやばいと思う。でも治らない。多分自己肯定感が低い。構って構って〜え〜ん!

 

人間関係構築下手くそすぎかよまじで。書いてて悲しくなってきたわ。

 

関係性をラベリングすることがナンセンスじゃね?って思ってた時期もあったし、いろんな人といろんな距離感があることを学ぼうね、いろんな距離感を大事にしようねってアドバイスされたりして、いろいろ考えることもあったのですが、もう考えるだけ無駄な胸中に至りました。相手が第三者の誰かを何かしらでラベリングしてる以上、わたしはそこには関われないし、その中には入っていけないじゃん。相当なことがない限り。他者に対して常に怯えがある。何をしたら困らせてしまうのか、何をしたら喜んでもらえるのか。すごく真剣に考えて、でも出てくる言葉は結局大半はそのときわたしが言いたいことしか出てこない。とどのつまり、私はあなたとこうしたいけど、わたしがどう振る舞えば、あなたはわたしの求めるリアクションをしてくれる?という自己満足に落ち着く。自分に自信がないからだと思う。だからこそ他人が喜んだり、不快に思わない方向で考えてるフリをして、いつも一番は自分のことを考えてる。でも他者に対しては異様に気を使ってしまう。わたしたちの輪の「外」にいる人ね。それだけじゃあ十分な言い訳にならない時もあって。自分がどうしたいかが一番大事な時だって、それを伝えないと何も進まない関係の相手だっているし、どうしたらいいのかはわからなくなるよねさらに。いろんな距離感って何。その距離感をどうすればいいかわからないから困ってんのにね。

 

わたしは誰かに縛られて生きたい(束縛とはまた別、誰かの所有物になりたい欲が強いのかもしれない)し、わたしも誰かを所有してたい。それは友達とか気の許せる人という意味でもそう。相手もだいたいわたしと同じようなことを、わたしが相手に思っていることを思ってくれてることが大事。

もちろん所有することしばりつけることと、私物化することは違うからそこらへんはかなりわきまえてるとは思うけど、その境目もまた難しい。

つまり生きるの難しいって言いそうだけど、とにかく他者との繋がりが欲しい。自分を肯定してあげたい。自分を肯定してくれる人がいい。上っ面じゃない、「いやそれまじでわかる...」でいいし、「可愛いね」でもいい。とにかく上っ面じゃない言葉が欲しい。

ただのめんどくさい人なんだけど、それでも必要なものは必要。空気みたいなもの。言葉を大事にして生きていきたいよね。大事にしてくれる人のことはちゃんと大事にしたい。その練習を今してる。人間はせっかく言葉が使えるからちゃんと表したい。でも難しい。自分の中にストッパーがある。これ言って相手の反応が薄かったらやだなとか。傷つくなとか。

そのストッパーをいつ、誰に外していいのかはいまだにわからない。だからかたい人だと思われるし付き合いが悪いと思われる。それはまた悲しい。

 

気楽に生きよう、ができない人には、お気楽すぎる人がちょうどいいと思ってたけど、そういう人は見ててイライラする。自分にないものがあるから。

 

自分を受け入れてあげたいですね。どんな自分も美しいよと言ってあげたいです。

 

とにかく明るいメンヘラ とは、、、?

 

基本的にテンションは高め、仲良くなるまで時間かかるけど基本ずっと喋っていられる。

でも、考えてることはどろっどろだしそれを別に表にも出さない。パッとみてわかるメンヘラでは決してない。

 

このブログも、本当は4月か5月にパブリッシュした某タクヤの話みたいなのをうつくしいものとして残しておきたくて初めたけど、もう色々と決壊しそうだったのでこのブログをゲロ吐き場として使うことにした。2つ運用しても良かったんだけど、めんどくさくてどっちか忘れそうだからすいもあまいも全部一緒にしてこそかなとそうすることにした。文字にすることでデパスもハルもエビも避けられるならそれでいい。

 

自分のことを明るいメンヘラから元気なネガティヴにランクアップ(?)させようと思って一生懸命考え方を変えたりしてみようと思ったけど、御苑前〜四谷に住むという人生最大の目標を達成すべく働く気になれた(26歳になったら)くらいの変化しかなくて、結局一生ネガティヴだし大げさに言えば自分は誰からも必要とされてないと思ってるしそれに近い感覚を持ってるし、多分半永久的にこのネガティヴからは抜け出せないんじゃないかと思ってる。

お前に限ってそれはねえだろと言われるかもしれないけど、本当は一ミリも自分に自信なんてない。自信あるフリもしてるしいかにも自信ありそうに振舞ってるけど、毎日毎日、死にてえなって思ってる。絶対死なんけど。

 

f:id:jyeullkya:20190920003046j:image

 

 

ブログを始める前からずーっとフォローフォロワーゼロのツイッターを墓場にしてはいたんだけど、ついにその墓場すら墓場にできなくて、成仏させる場所としてこれが必要だった。

 

別に生きてて楽しいと思うことって少ないし常に死にたいと思ってるけど、死ぬ方が面倒だから結局生きちゃうよね。でもめっちゃ生きてやるみたいな気持ちもなくて、ある程度死んでいたいという気持ちもあって、多分働き始めたら土日はどこにも出かけられないタイプの人間。家でずっとゲームして動画見て寝るだけの生活してそう。想像できすぎてウケる。年々セラーがでかくなる孤独な女、草も生えない。

 

こういうところは普通に生きるってことについてある意味向き合いすぎてるって言ってくれる人もいるし、自分でもそのバランスってひとのモノサシ次第だから自分の直感だけではなんとも言えないけど、多分根本的には生きることにそんなに興味がないんだよな。でも勉強することとか新しい知識を取り入れることも好きだし、年々変わる考え方とか、いろんなものを吸収して変わっていく自分が面白かったりするので、生きるのも悪くはないなと思う。矛盾はしてるけど、そういう死にたいと生きたいの狭間にずーっといる。どんだけ自分の命に対して上から目線なんだよって話だけど。

 

だからこうしてデジタルベースで自分の思いを残せるツールが普及してくれたのは個人的にはすごく嬉しい。ガラケーでボチボチするのもそれはそれで苦手でずっとパソコン派なので、スマホでキーボード打ち出来るのもすごく有難い。

 

この悩みやクソくだらないマインドにわざわざ時間と体力を費やして生きようなんてもし自分が他人だったら嫌だと思うよ。でもできねえんだも〜ん生きるしかないじゃ〜ん。

まだやりたいことは山ほどあんの。でも自分のまま生きていくのもやなの。でも、自分のまま生きていく決意ができない。だからなんとなく違うなって思ったキャラで生きちゃって自分の首絞めたり、そういう悲しいことになっちゃうのよね。

 

結論生きるってむじーなって話なんだけど、そういえばわたしまだ23歳だったわ。ギリ23にもなってねえわ。気楽に生きたいな。

 

いつから気楽に生きられなくなったんだろう。生きるということに向き合わなければいけない出来事なんて人生に必要ない。マジで。わたしのマインドでは死ぬとか生きるとか考えることはダサいことになる。ほんとは刹那主義で生きていきたいよ。後先なんて考えたくもねえ。でもそのことについて必然的にたくさん考えないといけない。だから自分のマインドと社会的立ち位置に折り合いが付いてなくてとにかく明るい(けど)メンヘラ(的考え方に陥ってしまう性質を内在してる人)化してる。

 

だから人生のテーマソングがThroneなわけか。でも歩く/生きるThroneになれてないあたり、結局オリバーの方が強い。泣いてる。

Throne

Throne

  • Bring Me The Horizon
  • ロック
  • ¥250